top of page

西陣織の歴史と今

西陣織の源流は、5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。
やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。
織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。

平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰え、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。
彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。
また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。

室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。

ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。

戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。

西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。

nishijinori_appomeart.jpg

大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。
また、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になったのもこの頃です。
こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されたのです。
西陣織とその産地・西陣は朝廷からも認められ、豊臣秀吉などによる保護を受ける一方、その後も自ら中国・明の技術を取り入れるなどしてすぐれた織物を生み出し、いっそう発展を続けました。

江戸時代になり、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していました。

江戸時代も半ばを過ぎると度重なる飢饉で世の中が不安定となり、幕府による奢侈(しゃし)禁止令もあって需要が減少した。

また、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことも痛手となりました。

明治になって首都が東京に移されたことも、京都の街全体の勢いを失わせました。

appome-edo_edited.jpg
appome-meiji.jpg

しかし、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応し、人材をフランスなどに 派遣し、ジャカード織物などの技 術を取り入れて、近代化に成功したのです。

大正や昭和にいたって、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、高級織物業の地位を確かなものとしたのです。

nishijinori-appome1.jpg
nishijinori-appome2.jpg

現在では、伝統的な帯地やきものに限らず、ネクタイやショール、和装小物などの材料用としても格調高いすぐれた製品を生産。
壁掛けなどいわゆるインテリア用途の製品が、帯地に次ぐ生産額を占めるほどになっているほか、斬新な感覚の洋風着物などの普及にも取り組んでいます。

織元 とみや織物とは

華麗から荘厳へ――。明治初期創業のとみや織物(京都市)は、西陣織の技術を応用して仏教美術の分野に挑み、「西陣美術織」を生み出した。少し離れて見ると写真と見間違える精緻さで、立体感もある仏像の掛け軸。和服のあでやかな帯とは対照的な厳かさが立ち上ってくる。
2023年 西陣織大会 内閣総理大臣賞 受賞 

【とみや織物の技術力】 

奈良県桜井市にある聖林寺の国宝、十一面観音立像を題材にした作品の場合、たて糸は約2700本、よこ糸は約2万4400本。よこ糸の数は和服の帯の倍以上という。仏像の微妙な陰影を表現するため多数の絹糸を使うが、織り方はより難しくなる。 よこ糸の数が増えると、たて糸と交わる箇所が増え、摩擦などでたて糸にストレスがかかる。よこ糸の長さに余裕をもたせるなど、力織機を扱う職人が気を配らないと、たて糸が切れてしまう。工房長(43)は「温度などでも変わる糸の状態に対応するには経験が重要。ロボットでは今は無理」と話す。 仏像の場合、撮影した画像データをコンピューターグラフィックス(CG)で調整。たて糸を引き上げてよこ糸を通すといった織機制御の情報はコンピューター処理だが、全自動で織れるわけではない。絹糸は蚕の繭からとるため品質にバラツキがある。糸の表面にたんぱく質のダマができたり、染料で糸が弱っていたりすることもある。完璧を目指すため、織り具合が少しでも悪ければ機械を止めてやり直す。 
よこ糸の補充も職人の仕事。空気が乾燥していると静電気で糸が絡みやすいのでストーブにヤカンをのせるといった配慮も必要。冨家靖久社長(54)は「音を聞いて機械の調子を判断することも大切。職人にとって織りは機械を使った手仕事のようなもの」と話す。 西陣は生地の表を下に向けて織るため、職人は下に置いた鏡をのぞいて織り具合を確かめる。伝統工芸士の資格をもつ職人(42)は「より近くで見たいときは手鏡を使う」と教えてくれた。 聖林寺の観音像には金、銀を含めて12色の糸を使った。背景には太い黒糸、観音には細い黒糸を使って本尊が浮かび上がるように表現している。黒が基調の仏像は、ちょっとした糸の引っ張り具合で光の見え方が変わりやすく、気を使うという。職人(42)は「機械といっても無機質ではなく、心をもった仕事のパートナーと感じる」と言う。
 これまで約50体の仏像を製造委託し最初の作品は原則として寺に奉納する。美術の愛好家や仏教の信者の購入希望が多い。

西陣織アートを観る

完全受注生産の京都西陣織アート作品を取り扱うAppome Art(アポメアート)

bottom of page